汗と涙と ~松高ラグビー部の思い出~ 10期 浅沼さん
早いもので、第二グランドでラグビーボールを初めて触ってから、既に38年が経過した。
我ら10期は、最上級生(当時の3年生は春の関東大会予選で引退していたので、2年生の春)に
なったときに13名しかいなかった。
試合では、2名の1年生を補充し戦わなければならなかった。
この時の仲間には、会える機会があれば、出来る限り会っておこうと考えている。
今まで生きてきた時間よりも、これから生きていく時間の方が短いという刹那的な感情も
無いわけではないが、各方面で活躍している同じ釜の飯を食ったメンバーと昔話をしながら
古き良き時代を思い出すのも楽しい。
そして、松高ラグビー部というスタート地点から、それぞれの道を歩んだ仲間の姿を見て、
明日からも頑張ろうというという意識になるのである。
あの当時を振り返り、よく話に出てくるのは、「汗」である。ランパスで出た自分の汗が、
スクラムやモール・ラックの練習でチームメイトの汗とお互いに混じりあい、
練習用のジャージ(Mジャー)の緑地に塩分の白い帯を作る。
このジャージは、どうせ明日も汚れるだろうという男子校特有のいい加減さで、
月~土曜日まで部室に放置されることになる。
と、当然、汗まみれのジャージは臭くなり、独特の悪臭が部室に充満する。
そして翌日、息を止めてそのジャージを着て、また練習に臨むのである。
悪臭の負のスパイラルであった。よくあんなに臭いジャージを着ていたと、今からすると不思議でならない。
当時、松高は西部地区に所属しており、その西部地区でもっとも強豪だったのが、
関東大会常連校の和光高校と朝霞高校であった。
もっとも印象に残った試合を述べよと言われれば、我々のチームが
それまで全く歯が立たなかった和光高校との試合をあげたい。
その試合は、夏合宿が終わった秋口に行われた。我々は、夏合宿の成果をすべて出し切り、
和光の攻撃を献身的なタックルで徹底的に潰した。
もちろん、和光のディフェンスも我々の多彩なサインプレーにほころびることはなく、
簡単に得点を得ることはできなかった。
前半を終えて0―0のまま、後半に入り、そしてさらに一進一退が続いた。試合が動いたのは、
相手の反則からであった。
トーキックの妙手、岡(ロック)が相手ゴール前の難しい位置からペナルティキックを決めた。
その後、和光は目の色を変え、攻めてきた。
相手バックスがこちらのディフェンスラインを越えた時には、フォワードがバックアップし、
相手をゴール前で止めた。
死に物狂いで走り回った試合であった。そして、野球のような3-0という
最小得点スコアのまま試合終了となった。
なぜだろう、今でも説明できないが、自然と涙があふれてきた。そして、むせび泣いた。
人生初めてのうれし泣きであった。
人目をはばからず泣いたのはあれが最初で最後かもしれない。
他のチームメイトも泣いていたし、郷家先生も泣いていた。
みんな笑いながら泣いていた。
「涙」と「汗」、いずれも松高ラグビー部でしか得られなかった貴重な体験として、今でも、心に刻まれている。
創部当時の思い出 1期 島野さん
昭和44年(1069年)春に松高入学。
当時は正門をくぐると現在の管理棟の場所に現松高記念館となっている木造の建物があり
旧制中学の面影を残していた。
現在の体育館の場所に半分以下のサイズの体育館兼講堂があった。
教室棟は今の建物が出来たばかり、管理棟と教室等の左奥には音楽室と剣道場があり、
教室等の裏には柔道場と食堂があった…今の合宿等のところに。
グランドはメインが一面だけで陸上部、サッカー部、野球部が使い分けていた。
その北側にはプールにバレーボールコート、そしてテニスコートが4面、テニスコートは奥にも2面あった。
バレーコートとテニスコートの間を通り藪の中へ、藪を抜けるとそこには草だらけの
ハンマー投げ専用のフィールドがあった。
その辺りは近所の方が通る小道があり廃棄物のような茶碗やガラス欠片も混ざったゴミ捨て場だった。
こんな空間が、私たちラグビー部1期生が入学した当時の松高敷地だ。
思えば1年生の冬の体育の授業でラグビーを正式に習った、
それまではTVの「青春とはなんだ!」とか「これが青春だ」で見るだけ!
スクールウォーズのラグビーブレイクより10年以上前の出来事だ。
1年9組の16人位に他の組からは確か3人が加わり、1970年の3月に北島先生に
「ラグビーを教えてください!」と田端直樹君(平成28年10月31に心筋梗塞で他界)の
声掛けのもとに産声を上げたのが松高ラグビー部です。
もっと前にラグビー部が出来たのではないか?という話もありますが、
北島先生の前に高橋先生(松高とほぼ同じ時に出来た行田工業高校:今の行田進修館高校で
ラグビー部を作った先生)が松高で作ろうとしたが作れなかった。
多分体操部の鉄棒の事故があったためだろう?
同好会からスタートしたラグビー同好会は、部にならないと公式戦に参加できない!と訴えて、
田端君の人脈と北島先生の尽力で1970年の秋には正式に部として発足した。
練習する場所も無く陸上トラックの外側でランパス、森林公園の芝生(今の森林公園駅西口あたり)まで
ランニングして行き練習、時には今の滑川高校の直ぐそばまで走っていった。
ラグビーグランドは一年ぐらい経ってから第2グランド計画の時に、
部員が砂まき整地や1列に並んでガラスや茶碗欠片等を繰り返し拾って作り上げたようなものです。
雨が降るとぐちゃぐちゃでこぼこ、細かい廃棄物で膝や腕は切り傷だらけ!
それこそ…どろんこ苦行は何のため? こんな時間が流れていた。
松高ラグビーの初めての練習試合は県ベスト8の与野農工との対戦でした。
「創部1年は勝つことなんて出来ない!トライも出来ない!」と埼玉教員ラグビー部の
先生方から言われていたが、確か…15 : 3 位で勝った。
次に社会人三井精機のチームと雨の中の試合で負けた。 その後は熊谷工業とばかり練習試合を
していたように思う。 当時は朝霞高校、秩父高校、熊谷工業が強い学校であった。
公式戦では新人戦準決勝で秩父高校と同点になり、くじ引きで負け三位決定戦で熊谷工業と
対戦して勝ち3位になった。
3年生になった時にはスタンドオフのK君たちが受験のために引退して、何人かはスタメンが変わり
関東大会予選兼学徒大会では決勝戦で朝霞高校と対戦して敗れ2位となった。
関東大会では茨城県の岩瀬高校と雨の中の対戦となり、フォワードの活躍で勝った。
懐かしい時間と空間の思い出です。
1期生の卒業記念品としてラグビーグランドにあの独特なゴールポストを立てた事を思い出します。
小川町の森林組合にH型になるように木を注文し運んでもらい、穴はスコップでの手掘りです。
四か所に1mの竪穴をそれもスコップの幅(25㎝位)のみの四角い竪穴を掘る必要がありました。
結局他の人が掘ると穴の口が大きくなりグラついてしまうので、結局私島野が四か所掘りました。
上部には枕木をぶれないように入れて、高さを確認しながら立てたのでした。
多分よく覚えている人はいないでしょう!何故なら大変な穴掘りをしてないから!!
あれから40年を迎える前にOB会を発足して、僭越ながら初代OB会長を拝命しました。
今OB会は2年後に創部50周年を迎えようと準備をしているようです。
是非ともOB相互の親睦と現役生への支援が続けて行けるようにOBの皆様にご協力ご支援を
お願いしたいと思います。
元顧問 郷家先生
松高ラグビー部OB会メルマガをありがとうございました。
浅沼君の文章を読んでいて、あの時の感動がよみがえりました。
パソコンの前で目が潤んでいます。
あの試合だけでなく、関東大会に、最初に(郷家先生が受け持って:メルマガ編集者加筆)選ばれた
山崎三十四(さとし)キャプテンの時の最終の試合は、小沢君がキックしたボールが
フルバックの前でイレギュラーして、蹴った小沢君がキャッチしてトライし、逆転しました。
コンバートを決めて、ノーサイドの笛が響き、体が震えました。
和光高校の生徒には悪いのですが、確かに徹底した忍耐のタックルで勝利し、
負けた彼らは熊谷の荒川河川敷のラグビー場から東松山までランニングして帰るように
顧問に命じられました。
7年間松山高校で教え、5年間新座総合技術高校で教えました。
松高ではケガばかりさせてしまった思い出が多く、生徒の皆さんには申し訳ない限りです。
30数年の時がたっても、それぞれの人生のしっかりとした基礎のように
活かされていることを知って、うれしく思います。
ありがとうございました。
松高ラグビー部探訪記 10期 野田さん
某年5月5日こどもの日、何十年かぶりに(あまりに昔で覚えていない)母校ラグビー部の練習に
参加した。 こうなったきっかけは、役員でもないのにOB会の役員会に参加したことから始まる。
懐かしい仲間に会いたいという軽い気持で川越の火鍋屋に赴いた。
役員会の議題は、ほとんど休眠状態のOB会立て直しについて。
陣頭指揮を執る前幹事長の鈴木さんが北海道に転勤となり、空位となったこれを誰が
引き継ぐかが最大のテーマ。
少し距離を置いて火鍋を突っついていた時、同期の森田君から凍りつく一言が・・・。
「野田がやればいいじゃない」 「・・・・・?」
これに異議を唱える人はおらず。 「仕方ね~な、いっちょやるか! お姉さん、ビールおかわり!」
それから顧問の塚越先生とやり取りをしながら、母校凱旋の運びとなった。
当日は、2期の堀さん、7期の根岸さん、8期の井出さん、同期の加藤君も参加してもらった。
意気揚々とグラウンドに現れた我々の姿を、現役生たちの眼にはどう映っただろうか。
自分が現役の頃、1期上の先輩でも怖く、2期上なら直立不動となり、
それより上なら遠目から眺めるしかなかった記憶がある。
30年以上前の先輩か・・・。 現役生たちは我々を敬い、礼儀正しく接してくれた。
練習開始して間もなく、井出さんの闘志に火が点き、変則ランパスのペースが上がったその時、
ブチッ!右ふくらはぎから異音が・・・。
その5分後、同期の加藤君も太もも裏を痛め、先輩の威厳も無く、揃って見学となった。
この程度で怪我するとは、あまりにも情けなく。
2019年、創部50周年OB戦を企画立案するに当たり、
この教訓を生かしOB会の皆さんに是非お伝えしたいのは、無理しないか、きちんと準備するか。
さて、OB会は皆さんの親睦を深めること、そして古豪復活のため現役生を
支援することを目的としています。
松高ラグビー部OB会の皆さんにご支援、ご協力賜りたくお願い申し上げます。
ラグビーフットボール発祥の地を訪れて 10期 秩父さん
もう10年近く前になるが、仕事の関係で英国へ出張する機会があり、
休日を利用してラグビー発祥の地である英国イングランドのウォリックシャーにある
ラグビー校(Rugby School)を訪れてみた。
オクスフォードから北へ70km、バーミンガムからだと東へ50kmほどの位置にある
ラグビーの町は、出張先のスウィンドンからも自家用車で日帰り可能なロケーションであり
静寂に包まれた街の中に、伝統と格式を感じさせるラグビー校の校舎が佇み、
近くには小規模ではあるがラグビー博物館もあった。
校舎の脇には芝生が整備された美しいグランドがあり、
白いゴールポストがラグビー専用グランドであることを物語っていた。
皆さんご存知の通り、1823年に この学校でウィリアム・ウェッブ・エリスという少年が
フットボール(サッカー)のルールを勘違いして、ゲームの最中にボールを両手で抱え込んで
エンドラインの向こう側まで持ち込んだことがラグビーフットボールの始まりと言われている。
ただし、ラグビーの起源とされているこのエピソードは伝説の域を出ておらず、
エリス少年が手を使った以前にも似たようなプレーが行われていたという説があるのも事実だ。
ともあれ、あと6年で誕生から200周年を迎えるラグビーフットボールであるが、
その前に、2019年はワールドカップが日本で開催されると共に、
我が松高ラグビー部が創部50周年を迎える意義あるメモリーイヤーとなる。
これを機会に松高ラグビー部OB会を皆の手で再興させ、
先輩後輩の壁を越えた絆を更に深めていける場となることを願うと共に
自分も微力ながら尽力できる様にしたいと思っている。
2019ラグビーワールドカップと松高ラグビーOB会との関係 10期 森田さん
皆さんも勿論ご存じのことと思いますが、2年後の2019年には、
日本でラグビーワールドカップが開催されます。
松高ラグビー部に籍を置き、人生で最も貴重な3年間の一部をラグビーに捧げた皆さんならば、
今からわくわくしながら楽しみに待っている方も多いと思います。
そうではなく、卒業後、ラグビーから離れサッカーや野球に心変わりしてしまったけど、
2015ラグビーワールドカップの五郎丸選手をはじめエディジャパンの活躍、
1次リーグB組の対南アフリカ選の奇跡の逆転劇で、改心して戻ってきた方。
また、ワールドカップをTV観戦しながら、「やっぱりラグビーは面白いよな。
実は、父さんは、高校時代にラグビーで五郎丸と同じフルバックやっていたんだぞ、
今じゃプロップの畠山と同じ体重だけどな、ガハハハッ(笑)。」と息子に自慢した方。
さらに、「あれっ、ラインアウトでジャンプする選手を持ち上げるのって反則じゃないの?いつからだよ。」
「何言ってるんだよ、父さん、とっくの昔からだよ。」と息子にバカにされた方
(ネットでググると1997年のルール改正かららしい。実は自分も知らない内に変わっていた派です)。
600名を超える松高ラグビー部OBの皆さんにおかれましては、他にも様々な感情を持って
2019ラグビーワールドカップを待ち望んでいると思います。
そこで、今回、松高ラグビー部OB会と2019ラグビーワールドカップについての
関係を調査(と言っても、ググっただけですが...)ならびに検討した結果をご報告させて頂きます。
(1)2019ラグビーワールドカップの状況
・熊谷ラグビー場が2019ラグビーワールドカップ開催地12都市の一つとして選出。(2015年3月)
・埼玉県と熊谷市は、県営熊谷ラグビー場を強豪国の試合を招致できるよう、
計3万人収容(常設2万4千席、仮設6千席)とすることを決定。(2015年7月)
・関東地方の開催地は、調布市の東京スタジアム(5万席)、
横浜市の横浜国際競技場(7万席)と熊谷の3都市で、客席数的には見劣りするが、
関東のラグビー場は熊谷のみなので、1次リーグに日本戦の好カードが行われる可能性が高い。
(2)松高ラグビー部OB会の状況
・松高ラグビー部は、2009年に創部40周年を迎え、松高ラグビー部OB会主催で
熊谷ラグビー場BグランドにてOB戦を開催。
(このとき、関係者より「50周年記念の時は、Aグランドでやらせてあげる。」との口約束を得ています。)
・松高ラグビー部は、2019年に創部50周年を迎える。
・一時活動が低迷しつつあった松高ラグビー部OB会は、加藤会長の元、
この4月に再活性化に向け始動したばかりである。
(3)検討結果
・松高ラグビー部OB会の再活性化が図れれば、2019ラグビーワールドカップで、
2015年の南ア戦の様な、歴史的試合が行われた後の熊谷ラグビー場のメイングランドで、
松高ラグビー部創部50周年OB戦を行える!(かも知れない。)
・若いOBの君は、意中の彼女に
「今度、ジャパンがオールブラックスを破った(仮定)あの熊谷ラグビー場で、
高校のOB戦やるんだけど見に来る?」と誘える。
そしたら一度もデートしてくれなかった彼女でも、二つ返事で、
「行く行く。○○クンもトライとかしちゃうの?。」
「いやぁ、オレはフォワードだから...、でも、君が応援してくれるなら頑張ってトライするよ。
そのかわり、もしトライ出来たら、正式に付き合ってくれる?」
「えー...(モジモジ)いいよ...。付き合ってあげる。」
で、2019年某月某日OB戦当日、君は、熊谷ラグビー場メインスタジアムで、
見事ゴールラインと彼女の心の両方にトライを決める(かも知れない。)
だから、皆さん、松高ラグビー部OB会、ならびに、今後設けられるであろう
50周年記念事業企画運営委員会へのご協力をお願いします。
ラグビー部の思い出 8期 井出さん
1 救急車の思い出
気がつくと、K(現会長)が戸板の上で横たわっていた。
スクラムの練習中、頭から水をかけられたKが全身を痙攣させ、両手がピクピクと動いていた。
しかし、これは序章に過ぎなかった。
数分後、N(通称デカチンN)が頭に水をかけられると、Kよりもひどく痙攣し手足をピクピクと
動かしていた。これを見た、OBはとっさに判断した。
そして、すぐに救急車がグラウンドに入ってきた。
このとき、Kは落ち着きを取り戻し、相変わらず戸板の上に横たわっていた。
そして、この日の午後の練習は無くなった...はずであった。
「Nありがとう。」お前のおかげで今日は休むことができる。
申し訳なかったが、本音はこの通りであった。
元気になって良かった。そのときはそう思った。
だが、それを見たOBは「大丈夫だ。」と思ったようだ。
なぜか、「5時にグランド集合」の一声がかかった。
「元気になるのが早すぎる。」と思いながら、グランドに向かった。
Nは午後には元気を取り戻し、親と一緒に合宿所に訪れた。
自分とS(通称オメSuzu)は食事係で、練習終了前の11:30には練習を切り上げ
着替えてから食堂にいた。
食堂のおばちゃんの指示に従い、12:00までに全員のご飯と味噌汁を食卓に並べた。
しかし、15分、30分と経過してもラグビー部は食堂に現れない。
隣のテニス部はすでにごちそうさまをしている。
そして、1時を回った頃、食堂前を死人のような行列が通り過ぎ、1:30冷え切った飯をいただいた。
2 昼飯の思い出
練習中、水を飲むことが許されなかったため、口の中は唾液が枯渇していた。
「水を飲むと、腹がいっぱいになり飯が食えなくなる。」といわれ、
味噌汁も十分に飲まず飯を食っていた。
砂利のような飯をかみ、やっとの事で飲み込み、これを繰り返し飯がなくなりかけたとき、
OBが「お前は小さいからもっと食え。」とご飯が元通りになっていた。
「俺も、OBになる!」そのときそう決心した。
3 風呂の思い出
比企文化社の先に銭湯があり、合宿中はそこまで歩いて風呂に入りにいった。
自分は、風呂上がりに薬局でリポビタンDを飲み、500mlのサンキストレモンを飲むのが
ルーティーンであった。
1日中「水を飲むな」と言われ続け思う存分水分をとれたのは、このときだけであった。
水分で腹一杯になり、「もう飲めない。」という気持ちになって、幸せなひとときであった。
4 トイレの思い出
当時は和式しかなかった。
座るまでは良いが、その後が大変であった。
正面にあった配管を両手でつかみ、やっとの思いで立ち上がった。
それ以前も、それ以降もそんな筋肉痛になったことはない。
あと、事務室の女子トイレも….変態の思い出が。
5 保健室の思い出
当時の保健室は、「カツエ婆」がいたと思う。
本人がいるときには、一度もお世話になったことはない。
しかし、合宿中は夜中に忍び込み、何重にも皮のむけた足の親指や拇指球に「ヨーチン」を塗った。
さらに、両膝の黄色い液体の出ている傷口にも、「ヨーチン」を塗った。
塗った瞬間は痛くてたまらなかったが、合宿後半には快感に変わっていた。
「ヨーチン」を塗ると傷口が早く乾き、治りが良い。といわれていたが、今では疑問である。
6 初トライ
3年の夏合宿、新米OBとして合宿に参加した。
現役対OBのゲームで、ウイングとして試合に出た。
当時最も恐れられていた、I川さんのフォローに必死でついて行った。
ゴール前、Iさんの正面に現役生が現れた。
「いつものように、現役をはね飛ばしてトライをするんだろう」と思った瞬間、Iさんが
自分にパスをよこした。 何のプレッシャーもなく、トライできた。
現役中は、公式戦で1度もトライをすることができなかったが、こんなに簡単にできたことに
Iさんに感謝した。
指導者となった今、2対1の練習をしっかりとやらせている。
合宿は、自分が成長できたと思える、大切な時間であった。
あの合宿があったから、今の自分があると考えられる。
あのときに逃げ出さなくて良かったと今でも思っている。
今度は、優しいOBとして合宿に参加したい。
思い出と近況 10期 佐藤さん
【松高生活】
私の高校生活と言えば、ラグビー部でした、と言うかラグビー部の思い出しかほぼ残ってません。
そしてその思い出の8割方は夏合宿(とその後の神津島合宿)です。
クソ暑い松高校舎の教室に畳を敷いてむさい男どもとの共同生活、
サロメチールの臭い漂う中で、誰かが拾ってきた漏電する扇風機にシビレながらも風を受け。
朝からランニングと腕立て、腹筋のお決まりのメニュー、日を追うごとに増えて行くランパスの本数。
ゴールポストの向こうから人影が現れると「誰?誰が来たの」と戦々恐々とし
E本さんと分かった時のSHをやっていた加藤君と中嶋君の絶望の表情が忘れられません。
その後は「ちょっとパスしよう」から始まって最後はサークル(15人ぐらいが10メートルぐらいの
間隔で輪になり、SHが次々とパスをして回る。
通常、右回りと左回りの両方をスタンディングパスとダイブパスの2種類やる。
当時はスクリューパスすると怒られた。
届かないとアゲンで、一向に終わらない。
チョン蹴りに匹敵する恐怖のメニュー。)への発展、当然SHには休息時間はありません。
それでも夜にはN村君の持ってきたバチェ◯ーをお供にトイレの個室へ(若かったんだよ)。
合宿でラグビーが上手くなったかはわからないですが、今でもこの時の経験値で生きてるなぁと感じてます。
神津島合宿の件はきっと別の人が書いてくれるでしょう、前嶋君と森田君のお話希望です。
【10期の仲間たち】
出会ってから40年?いい仲間に巡り会えました。
就職して15回転勤を繰り返し、ともすれば音信不通になりがちな私を
現世に繋ぎ止めてくれたのが10期の仲間たちとの交流でした。
子供達が小さい時はよくバーベキューに誘ってもらいました、
フッカー沼田君の特製スペアリブとナンバー8浅沼君の奥様が作ってくれたお漬物は絶品でしたね。
またやりましょう、10期といわずOB集まって昼間からワイワイ!
一言お詫び スクラムブレイク後のノッコン誠に申し訳ございませんでした。
[近況]
「81キロになったらロードバイク買ってあ・げ・る」
この春の異動でデスクワークに変わり、体重がゾロ目になった時の妻の一言に思いっきり反応しました。
2か月後の現在73キロ、次に皆さんと会う時には60キロ台になってたりして。
松高ラグビー部創立50周年記念試合に5分だけ出場する気マンマンです!
長文駄文にお付き合いありがとうございました。
青春の涙 8期 原澤さん
松高を卒業して早40年。
この年齢になると往時の記憶も断片的にしか残っておらず、
特に自分に都合の悪いことは別の記憶に上書きされているケースがよくあるので、
これから綴る出来事が関係者の記憶と多少ズレが生じてもそこはご容赦願いたい。
そんな断片的な記憶の中でも、鮮明に覚えているのがあの忌まわしい出来事・・・。
本当は忘れたいのに、40年経った今でも忘れられないあの衝撃・・・。
もっと楽しかったことや懐かしい想い出がたくさんあったはずなのに、
そのあたりはすっかり色褪せてしまい、
忌まわしいあの出来事だけが何故か4K画面を見ているように高解像度で映像が蘇って来るのです。
入部して4ヶ月近くが経った8月。
練習にも同期の仲間にもそして厳しくも優しく指導してくれる7期の先輩との部活動にもだいぶ慣れ、
初めての夏合宿を迎えることになった。
酷暑の中の練習とOBたちの参加に多少の不安や恐怖は抱えていたものの、
同期の仲間や7期の先輩とのつかの間の共同生活に心躍らせて参加したあの夏合宿。
(辛い練習や今では考えられない運動部の水を飲ませない練習の酷さについては、
メルマガ7号で夏合宿の想い出に触れた同期の井出君の投稿を参照のこと)
そして事件は、合宿の二日目に起きた。(リアルさが伝わらないといけないので登場人物は
あえて実名とさせていただきます)
その日の朝、合宿所で寝ていた僕は近くに人の気配を感じて目を覚ました。
半分夢心地で目を開けるとそこには7期の先輩たちが寝床を囲むようにして僕の顔を覗き込んでいる。
山﨑さん、溝口さん、小沢さんそして根岸さん。他にも何人かいたようだったけど、
この4人の先輩たちの不気味な笑顔だけは忘れられない。
きょとんとしたままでいる僕と目が合った根岸さんが一言つぶやいた・・・「ぞうさん」。
一瞬、何を言っているのか、何のことなのかさっぱりわからなかったが、やがてその視線が
僕の股間に注がれていることに気づき、
「何があった?」「何がおこった?」「何をされた?」何かとんでもないことが我が身(股間)に
襲いかかったことだけは注がれた視線の先の違和感からも容易に想像できた。
先輩たちの視線が集まる中、僕はそっとパンツの中に手を滑らせた・・・
何だ、この感触・・・まさか・・・、
慌てて布団から起き上がりトイレに駆け込み恐る恐るパンツを下げると、
大切なあの部分が白いなにかで覆われている。
「げっ!」一瞬若さ故の失態かと頭をよぎったが、それが歯磨き粉であることがそのスーッとした
爽快感からすぐにわかった。
変に安心しながらトイレットペーパーで拭っていると、今度はマジックで描かれた
不思議な絵柄が現れて来た。
僕の大切なあの部分の周りに描かれているのは、二つの半円・・・。
そうか、根岸さんがつぶやいた「ぞうさん」とは、このことだったのか。
その後、シャワー室に場所を移して必死に石鹸を泡立てたのは言うまでもない。
家族以外の目に触れることのなかった神聖なシンボルが先輩たちの淫らな眼に犯され、
悪戯をされたことの恥ずかしさと悔しさで溢れた涙がシャワー室の排水口を
石鹸泡と共に流れていく・・・。
でも根岸さん、もう僕は恨んでません。
多分、根岸さんの記憶からはあの忌まわしい事件の記憶は別の記憶に上書きされて
しまっているのでしょうね。
そして僕はあの夏、大人の階段を一段上がることが出来ました。
7期の先輩、ありがとうございます!
全国大会予選観戦記 10期 野田さん
2017年9月9日浦和工業グラウンドにて、全国大会予選いわゆる花園予選1回戦が行われました。
我らが松山高校ラグビー部の対戦相手は城西川越。
13:45キックオフ!直後、立て続けにトライ奪われ、12対0
相手の早いパス回しに翻弄され、劣勢スタート。
その後フォワードがねじ込み前半終えて1トライ1ゴール差。
後半開始早々同点に追いつく。
一旦は安全圏までリードするが、粘る城西川越が2点差まで盛り返し、
自陣22mライン付近でヤンボのピンチ!
相手の猛攻凌ぎ、ノーサイド!
終わってみれば、40対38の胃が痛くなるような接戦だったが、稀に見るナイスゲーム。
比留間キャプテン率いるフィフティーンの死力を尽くした戦いが報われました。
当日は大勢の父母会、若いOB、応援団と駆けつけ、熱いエールを送りました。
OB会からは加藤会長、E本さん、あっ間違えた!榎本さん、野田で応援しました。
次回、9/24(日)13:00から熊谷工業グラウンドにて、永遠のライバル熊谷高校との対戦です。
我らが後輩、頑張っていますよ!
OB会の皆さんも、是非足を運んで応援して下さい。
松高OBでよかった 10期 沼田さん
秋だというのに、夏の暑さが残るある日、奥さんの「梨が食べたい」の一言に家族で東平に
梨狩りに行ってきましきました。
東松山といえば「焼き・・」梨狩りの後の楽しみも思い描きながら、東松山の駅前から、
「上岡経由熊谷行き」、荒川グランドや熊谷工業等への試合に向かった時の遠い記憶に浸りながら
バスに揺られて行ってみました。
バイパス沿いと違い、バス通りには大型店が出店するでもなく、合宿の時世話になった
おばあさんの銭湯や、小型の店舗が廃業して新しい住宅に建て替えられている光景が
ちらほら見える位で、大きな変化が無いことも、懐かしさを増幅してくれました。
梨園のおじさんとお話しをしていると、なんと松高の大先輩でいらっしゃることが判明、
「かわいい後輩(随分と薹が立ついるのですが)だからサービスしないとな」とおっしゃって、
本来なら梨狩りの試食は1個までで後は買取なのですが、食べ放題に、していただきました。
しかもお土産用の梨までいただいて。そこまでしていただいたら、1人500円の梨狩り料金だけで
本当に良いのですか。 せめてもということで、実家に大振りの梨を送らせて頂きました。
子供たちは大喜び、「お父さん凄い、偉い」・・・別に俺が凄いわけではないのですが・・
その後1週間程、家での位置づけが高まったことは事実でした。しかし、「来年も行こうね。
また、先輩のいる梨園探しといてね」は、プレッシャー以外の何ものでもない。
大先輩ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
こんな話は、東松山方面へ行くと良くある話で、仕事でも先輩のお力をお借りしたことは
たびたび有りました。
「今は昔・・・」とまでは行きませんが、世の中が2000年問題で騒いでいた頃、11年に渡る
北海道勤務の年季が明け、埼玉での新規店舗開発に携わることのなった時の事、
当時東松山方面は新人君が担当していました。右も左もわからない新人君、仕事に行き詰まりを感じて、「一度同行してください」と頼まれ、
元来の人の良さから、当時大宮方面を担当していたのですが、自分の仕事はうっちゃって
遥遥荒川を越え、東松山に。
気合を入れて、まずは地元ネタからと、
松高に通っていた事から話し始めると、社長がなんと松高の先輩で、野球部OBの方でした。
すかさず、野球部独特の鶴の首を絞めたような変な挨拶の話を振ったところ、
「俺たちの時代にはそんな挨拶はしなかった」と言われてしまいました。
でも、お話しは盛り上がり、結果2ヵ月後には契約させていただきました。
先輩のご尽力のおかげで成約にいたり、本来ならお礼をしなくては、いけない立場でしたが、
逆に「焼きトン」までご馳走になってしまいました。先輩ご馳走様でした。
その新人君はそれ以降味を占め、事あるごとに呼ばれましたが、そんなにうまい話は
続くわけでもなく、契約に至ったのはその1件だけだった気がします。
しかし新人君は立ち回りの上手く、上司の受けも良く、その後俺を追い越しスピード出世。
でも、出る杭は打たれるの例えの通り、居づらくなって退社、
今では他社の開発部長様でいらっしゃいます。不器用な自分には真似出来ないことですね。
うちの子供たち含めて最近の若い人の行動には驚かされることもあります。
我が後輩達の事も気になり、詰襟に付けた、松葉を向かい合わせた襟章。
松の若芽をあしらった校章のボタンを見かけるとついつい声を掛けてしまったりして、掛けられた方は迷惑な話かもしれませんが、
それでもきちんと背筋を伸ばして、きちんと挨拶を返してくれる。
そんな後輩たちを見て、贔屓目かもしれませんが、松高生はしっかりしてるな。と思ってしまいます。
職場の後輩に「川越女子高校」の卒業生がいます。
彼女曰く、当時(2000年頃)「川女」では、「川高」より「松高」の方が断然人気があった・・・ そうです。
変にちゃらちゃらしたところが無く、不器用そうだけど硬派な感じがするから、が理由だそうです。
連れ行かれた先は不動産屋さん。地主さんとの仲介役で、地主意思決定の鍵を握る人物とのこと。
ここは一番、格好良く決めないと先輩としての顔が立たない、北海道弁で言うところの
「イイフリコキ【(訳)格好をつける、ええかっこする】」状態。「よし!」と心の中で一言、
「松高トラディショナル」なんでしょうか。「そう!そう!」とうなずきながら聞いていてうれしくなりました。
35年前、通学の東上線の中で読んでいた、司馬遼太郎本のヒーロー達、坂本竜馬、織田信長、が
鬼籍に入った歳を、自分はすでに越えてしまい、過去を振り返ることも多くなりました。
ラグビー部で過ごした3年間はもちろん掛け替えの無いものであり、そこでともに過ごした仲間たちも
掛け替えのない宝物であり、それが今の自分の基本部分の支えとなっている事は事実です。
それらのことも、松高というベースラインが有ってのことであり、松高ホームページに有る
「大正12年に創立された県下に誇る伝統校」に身を置き、今年で95周年となる伝統、
「松高トラディショナル」を肌で感じ、身を染めたことがを誇りに思います。
そして少し大げさかもしれませんが、「松高トラディショナル」を継承することの大切さを感じたりしています。
梨狩りの帰り道、比企一周駅伝のコースを辿り駅まで約5km歩いてみました。
途中もちろん松高の校門前を通りました。校門前から見えた、校舎に掛かった成績優秀な部活動を
称える何本もの垂れ幕を見て発した娘の「ラグビー部のが無いね」の一言に肩を落とし、
その後の駅までの道のりはトボトボと肩を落としての歩みとなってしまいました。
日曜日だからなのか、「これ!これ!」って感じの昔ながらの店は開いておらず、快速急行で
川越市まで飛ばして「若●屋」へとの案も頭をよぎりましたが、「若●屋」も日曜定休だったことを
思い出し、駅前の高級ウイスキーみたいな名前の焼き鳥屋で反省会。
自分の個人的な理由からOB会活動を欠席し、後輩を十分励ますことが出来なかった事を
後悔しつつ、反省のホッピーで乾いた喉をうるおしました。
目の前にある、思わぬ「梨」の食べ放題でご機嫌な笑顔。
そして「お肉は別腹」と言って焼き鳥を?張る笑顔に元気をもらい、現役諸君が頑張れるよう
バックアップするOB会の活動に積極的に協力しよう、
そして近い将来、校舎の壁にラグビー部の垂れ幕を出せるようにバックアップしよう。
と心に誓い「中お願いしまーす」と声を張り上げたのでした。
そして、決意のホッピーを呑みつつ、「明日は郵便局に行こう」と心で呟き、スマホの行動予定に、
「10:00 OB会費送金 麹町本通郵便局にて」と登録した、秋だというのに、夏の暑さが残る
ある日の夕暮れ時でした。 まずは、OBとしての義務を果たさなきゃ。
まとまりの無い長文にお付き合いいただきありがとうございました。
皆さんOB会費ご協力いただけましたか?ご送金はお早めにお願いいたします。
松高ラグビー部の思い出 11期 田中さん
あと2年後に日本でラグビーワールドカップが開かれる。自分たちが松高ラガーマンだった頃には
想像もできなかったことだ。 そして昨日はワラビーズがジャパンと対戦した。
あと2年のうちに前回のワールドカップ、エディ・ジャパン以上の戦果を残すには大変な準備が
必要だろうが、いまからどの試合を見に行こうか楽しみにしている。
ところで、みなさんはどのようなきっかけでラグビーを始めたのでしょうか?
どのようにして松高ラガマーンになったのですか?
松高に入学し、正直真黒なカラスの集団か?と思った入学式の翌日、放課後に部活動見学に
行こうと思っていた。中学時代に野球部だったのでまず野球部へ見学に行こうとグランドへの
向かい歩いていると、「おい、田中!」と中学時代の野球部T先輩に呼び止められた。
「ちょっと来なよ」と連れていかれたのは野球部の方向とは違いテニスコートわきの細い道を
抜けた第2グランド。
T先輩も中学時代の白球とは違い茶色くいびつで大きなボールを持って走っている。
少しだけ見学し「ここは俺のいる場所ではないな」と思い「失礼します!」と帰ろうとすると
「明日も来なよ!」と背中に大きな声が。 無視はできないので翌日も見学に行き早々に
帰ろうとすると今度は「明日は運動できる格好で来なよ!」
こうして私はたいへんスムーズに松高ラグビー部に入ることになりました。
ラグビーというスポーツとラグビーを通しての多くの人との出会いのきっかけを作ってくれた
T先輩には今でも感謝しています。
入部して間もなく1年生にボールの扱いを教えてくれたのは3年生のT先輩でした。
今では試合中はめったに見られないボールは回転しないで広げた掌に収まるように縦に投げる、
と教わりました。 T先輩は「ややひじを張り、手首や薬指小指のスナップを利かせて投げる。
こうやって投げるんだよ」と私に向かってボールをパスしました。
生まれて初めてパスされたラグビーボールを受けました。 そのパスの伸びがあって強かったこと!
安易な気持ちで手を出した私の左手の親指が「ボキッ」と鈍い音を立てました。
それ以来今でも私の左手親指は第1、第2関節の違和感が取れず時々何かの拍子で関節が
抜けそうになり激痛が走ります。
ラグビーってすごいなと実感させてくれたT先輩には今でも感謝しています。
その頃のボールはセプターでした。K先輩やN先輩をはじめ2年生にはボールの手入れの仕方を
教えてもらいました。 空気を入れたボールに唾を付けて指で直接磨く方法です。
初めて教わったとき、先輩に手本を見せてもらったとき正直騙させていると思いました。
しかし、先輩方は真剣でした。
それから毎日昼休みはグランドわきの小屋での生唾と指でのボール磨きが日課となりました。
ボールをはじめ用具の大切さを教えてくれた先輩方には今でも感謝しています。
初めて試合をしたのは懐かしの荒川Gでした。
ラグパンやスパイクは買ったばかり。 原宿の竹下通りの小さなショップで買いました。
ヘッドギアは借り物でした。 ポジションはウィングで、「ボールは前に投げてはいけない、
落としてはいけない」これがそれまでに覚えたルールでした。
そんな私にスタンドオフのS先輩やハーフのN先輩はやさしく「ボールを持ったらまっすぐ走ればいい」
それだけ教えてくれました。幸運にも相手のパスをインターセプトして独走トライを取ることができました。
後で大学ラグビーを知るようになってから、先輩は明治の北島監督の「前へ」の神髄を教えてくれたのだと
わかりました。そんな先輩方には今でも感謝しています。
スクラムの組み方を教えてくれたのは後の部長N先輩やT先輩でした。
なかでもN先輩のグランドわきの丸太を使った「馬」の美しさ私を乗せもびくともしない力強さ、
「ここにはリンゴが入っているんだよ」と3年生が教えてくれた見事なふくらはぎ。
首が折れるかと思うくらいの首の取り合い。
スクラムとはこれが8人合体してできているのか、と感動しました。
松高ラグビー部創成期の先輩方にもお世話になりました。
もう練習も終わりの時間に薄暮の中校舎からの通路でなく、フェンス側の道から現れ、
金網を乗り越えてやってくる先輩方は当時の私たちにとって恐怖以外の何物でもありませんでした。
I先輩やS先輩には通常練習でヘトヘトになっている中でさらにもう練習をつけてくださいました。
「あたり」を担いで走れというI先輩やモールで現役5人を1人で引きずっていくS先輩には本当に
感謝しています。 失礼ながらI先輩は鬼のI、S先輩は悪のSと呼ばせていただいていました。
後日I先輩は私の妻と同社に勤務していたことが判明し、「とてもやさしく気さくでいい方」とい評判でした。
また、S先輩には街中でお会いしてご挨拶したところ「あ、私現在こうして教育関係をやっております」と
議員さんの名刺を頂戴しました。 ロックをご指導いただいたK先輩は役所の要職とお聞きしました。
合宿で枕をボール代わりにハーフにダイビングパスをご指導いただいたE先輩は私の職場の上司と
同期だったらしくたいへん評判がよかったです。
松高ラグビー部創成期の先輩方は現役時代には本当に恐ろしかったですが、各々が松高愛で
後輩に接してくれていたのだと思います。
最後にラグビー部を支えていただいた顧問の先生はI先生、O先生、G先生でした。特にG先生には
お世話になりました。 ご自身はラグビーの経験がないのにレフリーの資格をとり、そのレフリングの
真剣さは生来のまじめさもありすがすがしく感じました。
特に試合中笛を吹いているはずの先生の姿が消え、選手が立ち上がったラックの中から姿を表した時は
そのひたむきさに脱帽しました。
1年生の冬試合中にセービングをしたとき相手に背中をけられ背骨を2本骨折しました。
2週間入院した後、自宅で2週間安静にと診断され自宅にいた時、G先生は自宅まで来てくださいました。
けがの心配をしてわざわざ自宅まで来てくれたのかと感激している私に先生は
開口一番「やめんなよ田中!部員足りなくなるかな!」とたいへん心温まるお言葉をいただきました。
そんなG先生はご自宅へ部員を招待してご馳走をふるまってもいただきました。
とても明るくまじめで熱い方でした。
私たちの時代は昨年亡くなった平尾さんの世代でまさにスクールウォーズ世代です。
何か辛い事があるとあの主題歌を口ずさみ心を奮い立たせました。
松高の同期や大学の同期にも恵まれそんな出会いのきっかけを作ってくれた松高ラグビーに
そして導いてくださった先輩方にはほんとうに感謝の気持ちでいっぱいです。
松高ラグビー部の思い出 8期 三浦さん
私たちの期は、卒業時に12名で記念写真を撮りました。
40年ほど経ちましたが、その内の8人とは時折連絡を取り、会うこともあります。
それもひとえにキャプテンだった加藤冬喜氏の人柄と尽力のたまものと、内心で感謝しております。
最近感じていること書きました。
短くて申し訳ないです。
松高ラグビー部の思い出 11期 有馬さん
自分たちの代は、前の先輩たちがほぼベスト4に入る強いチームで12期も体格の大きな輩が多く
端境期の代と言われる代でした。 また、郷家先生がまだ顧問になりたてで、自分たちも素人
(失礼ながら)顧問も素人、練習メニューは自分たちで考えなければならず・・・
しかも自分たちの代は弱いし、メンバーもギリギリ15人。 どうしたら強くなれるか?
当時、キャプテンに全権が一任されており、そこでいくつかの大胆な改革を断行しました。
①「雨の日でもグランド練習をする!」「実践を多くする」 前の代までは体育館でランパスなど
室内練習でしたが、そんな普通のことをやっても前の代を越えられないなぁと。
②「下の代からもレギュラーに入れる」 やはりこれも慣例で上級優先でケガなとがないと
ほぼ下級生はレギュラーになれない。
キャプテンとは言え、実はこれが普通の高校生が背負うには酷なことで・・・
・雨の日のグランド練習、何、勝手に決めてんだよ。ぶざけなんよ。
・かわいそうじゃん、同じ代なのに、レギュラーに入れないなんて。 ・練習キツすぎるよ。と。
こんな声も耳に届いていましたが、方針は変えずに「強くなればきっとわかってくれる」と突っ走りました。
そして、関東大会の最終戦、朝霞高校に勝てば関東大会という試合。
確か「24VS5」で惜しくも敗戦。練習試合を通じて一度も負けなかった相手に敗戦。
悔しいというよりも呆然!! 今思うと、あの試合はこう総括できます。
「練習すればするほど、また、この一戦と思えば思うほど、普段の力が出せないのだと。」
「普段どおりの力を発揮する⇒それは最後は精神的なものが大きいのだと。」
郷家先生は、大変熱心でほぼ毎日練習にも来てもらい、また審判資格を取るなど随分と尽力
いただきました。 感謝しています。たしか(岡本?)副顧問にもお世話になりました。
ただ、あの試合の時だけ、あの試合の前だけ、高校生のガキんちょに普段の力を発揮できる別の
力が・・・という気持ちは今でも変わりません。 リラックスしたり、普段どおりにさせるそんな力。
これが一番難しいですよね。 最近は、なかなかそのラインまでいくチームが作れていないようですが、
OBとして陰ながら応援しています。 関東大会・花園に行ける日を夢見て。
わが青春のラグビー 11期 松村さん
楕円球を追いかけた高校時代から、はや36年以上もの月日が流れてしまった。
高校時代を振り返ると妙に昨日のように甦る鮮明な記憶もあれば、どうだったかすっかりと
忘れ去られている記憶もある。
どちらかと言えは、後者が優勢になってきていることは、きっと老化なのであろう。
当時を振り返ると、思い出すのは夏。 ギラギラした太陽輝く昼下がり、陽炎が立つ緑まぶしい
芝のグラウンドで誰かがホースで水を撒いている。
水を飲むことは一切禁じられ、あたりはむんむんとした熱気を感じる蒸気のみ。
目がくらむ暑さの中、必死に走る。テニスコート境の大きな樫の木の木陰が、唯一癒しの空間だ。
練習が終わると、木陰のはずれにある数本の水道に先を争いむさぼりつく。
水道水を腹いっぱい飲んだ。
あの充足感。極限の厳しい環境から解き放たれた瞬間だ。
冬の木枯らし吹くよく晴れた日、その日の練習は、吉見百穴近くの神社までランニング。
参道の100段はありそうな長い階段で、自分がつきたいポジションを順番に叫んだ。
補欠を覚悟していた私は、ヤカン担当を表す「水」と叫んだが、活舌悪く先輩方には「ウイング」と
聞こえたらしい。 ちなみに当時の救急道具は、ヤカンのみ。使った記憶はないが、
気絶した選手にヤカンの水をかけ、蘇生させる時代だった。
倒れた選手に水をかけ、意識が戻り立ち上がりると、サイドに出て目を閉じ片足を挙げ、
ふらつくことなく静止できれば試合復帰であった。 「魔法のヤカン」と言われていた。
今では考えられない。
春先、グラウンドの隅で犬が子供を産んだ。
子犬が数匹。あまりの可愛さにみんな練習前順番に抱っこした。
そのなかの一匹を連れ帰り、わが家で「チビ」となった。倉庫前の陽だまりののどかな光景が浮かぶ。
当時は、孝次(幼馴染の親しみを込め、失礼ながら呼び捨てとさせていただきます)の投稿にもあったが、
練習前に1年生が倉庫でボールを磨いていた。
ワックスとかではなく、唾を吹きかけボールを磨いた。
唾液がしみ込んだボールは、手になじみ滑り止めの効果があった。
ただその後、新しいボールが大量に購入され、唾で磨くことはなくなったと記憶するが今は
どうしているのだろうか? 野良犬がいたのも当時ならではであった。 奮闘する勇姿が蘇る。
ある先輩は、怖いもの知らずの全力プレー。どんなに大きい相手でもタックルに躊躇がない。
激しいタックルで脳震とうを起こし、救急車で搬送されることもあった。
また、ある先輩は、鎖骨骨折の大けがをしてからあまり月日がたっていなかった。
肩にサポーターをつけ、痛みをこらえて試合に臨んでいた。果敢に攻撃してくる敵に決して
ひるまずタックル。 痛みで顔が歪んでいた。あの闘争心、半端ない。
同期の孝次は、先の投稿にもあったが、試合でボールをセービングした際、ろっ骨を蹴られ骨折した。
その後試合復帰したが、腰にコルセットを付けて痛みに耐えながらもプレーする姿が今でも目に浮かぶ。
精神力の強さは、計り知れないものがあった。
11期有馬キャプテンは、いつも大声でみんなを鼓舞していた。
劣勢の時には「お前らこんな奴らに負けるのか」と仲間を奮い立たせる言葉を次々に叫んだ。
キャプテンの声がグラウンドに響き渡っていた。おとなしい他のメンバーは、秘めた闘志で黙々と戦った。
………。記憶の断片が、蘇る。皆きっと全く違う断片を記憶しているに違いない。
当時を振り返ると、不思議と苦しいとかきついとか、きっと当時は大半を占めていた記憶は
全く残っていない。 むしろほのぼのとした癒しの時間やみんなの奮闘ぶりなどが鮮明に蘇る。
記憶というのは都合よくできているものだと改めて感心する。 当時の私を振り返る。
私は体が小さく(今は無駄に175㎝)軽量、鈍足で筋力も極端に弱い。
そして臆病。ラグビー選手に求められる素質がなにひとつなかった。
小学生の時に見ていた青春ドラマに感動した軽いノリでラグビー部に入部した。
松山南中学校から念願の松山高校へ入学。心弾むなか、南中の仲間が意気投合して7人?の大量入部となった。
仲間は次々に主力の選手になった。私も毎日休まず練習に励んだ。
寝るかラグビーかの生活だった。しかし現実は厳しく、チームの戦力にはなれなかった。
今振り返って思うのは、日々の練習メニューを漫然と滞りなくこなし、
帰りに立ち寄る駄菓子屋で「あんサークル」を買い食いすることをひそかな楽しみとし、
帰宅後飯を食い、風呂に入り家族団らん。
また明日に備えて早めに就寝。授業も放課後の練習に備え、先生の教えに耳を傾けることなくこれまた就寝。
何かを成し遂げる偉人は、目標に向け何をすべきかを常に考え行動している。
偉人と凡人の差はここにあると痛感する。
<誇り>
ただふがいないと思われる自分でも、あの練習していた日々は人生の財産だと思う。
自身の勲章になっている。「ラグビーやってたんだ」と自慢さえしている。
強靭な人たちとともに練習した。多くの勇姿に、いつの間にか自分も磨かれていたと気づく。
貧弱な体でも鍛えられ、自身のその後の根幹となるものを築けた。
大病もせず健康に暮らし、50歳を過ぎた今でも小学生の次男と対等?に運動ができる。
厳しいことにも立ち向かう根性が身についた。あの時があったからこそ今の自分がいる。
卒業後は、ラグビーの練習していた自分を誇りとしている。
人間は本当に都合よくできていると実感するが、これが私。
<感謝>
このような私を鍛え見守り、真剣に指導してくださった郷家先生、10期の方々を中心とした諸先輩方、
そしてともに練習した11期の仲間たち、12期後輩たちには、孝次と同じくただただ感謝でしかない。
『ありがとうございました。』
最近よく考えること 10期 沼田さん
松高ラグビーOBの皆様こんにちは 新年、明けましておめでとうございます。
自分はもうすぐ55歳。 人生50年と謡った英傑が鬼籍に入った歳も越えて、
いろいろと考えることも増える年頃となってしまいました。
昨日のランチのメニューも思い出すのに苦労するくらい記憶力も衰えてきているのですが、
昔のことを思い出して改めて考えてみたりする機会が増え、その中で最近よく考えることを
書かせていただきます。
我ら10期は、卒業時点では13人の少数精鋭、体型的にも小粒でフッカーの自分が
70kgに満たないウエイトの為、フロントロー平均体重が70kg程度だったと思います。
もちろんフォワード平均体重も70kgに届かない超がつく軽量フォワードでした。
そんな中で強豪チームのプレッシャーに耐えチーム一丸となって球を出し、
前へ前へと球を運んで勝利にまい進する
泥臭いラグビーをするチームだったと思います。
当時強かった明治のラグビーのような、と言ったら言い過ぎかもしれませんが
知識や技術の裏づけはありませんでしたが、顧問の郷家先生初めガッツでは負けないチームでした。
また、折々においでいただき、丁寧に、根気強くご指導いただきました、多くの先輩方のお力もあり
なんとか県ベスト4まで進ませていただきました。
郷家先生、多くの先輩方、そして10期だけではチームを組めなかった我らと
ともに戦ってくれた11期の諸君の力も大きかったことを感謝しつつ、
何故超軽量で、知識、技術、も足りない我らが勝ちあがれたのか、原因を考えるに
常に突き当たるのが「チームワーク」と言う事柄です。
「チームワーク」を検索すると、大きく2つの意味があるようです。
1.お互いの弱みを補完し、強みを高め合うことによって相乗的な力や効果を生み出す共同動作のこと。
2.目標を達成するために、チームメンバーで役割を分担して協働すること。
野球に例えると、三遊間の打球に安部が追いつけず、田中がバックアップしアウトを取る。
これは前者ですね。 日本的な考え方だと思います。
でも忍者菊地1人だけでは強いチームにはなれません。
後者は各々が、各々の守備範囲を守り抜くその中でアウトを重ねること。
各々のプレーヤーが各々の技術を高め守備範囲が広がることで結果として強いチームになる。
我ら10期はたぶん後者だったように思います。
しかしながら技術的な裏づけがあった訳ではなく、
また各々の技術がそれぞれに大きく高められていたわけではなかったと思います。
チームプレーの面で言っても、我らのセンターラインは、2番と15番を除くと、自分が前に出たい
意識が強く、きれいに決まるサインプレーは少なかったように思います。(10期のみんなごめん)
それでも、当時の我らは各々が自分の実力を理解していたと思います。
それと同時に仲間それぞれが持っている実力についても理解していたと思います。
それぞれの状況で各々がどういうプレーをするのか理解できていて、それによって次のプレーを
イメージして自分のポジショニングや、プレー内容を瞬時に判断して対応していたような気がします。
文章にすると格好良いのですが、実際にそこまでシステマティックでは無く、その場の瞬時の判断、
本能とは言いませんが、無意識の内に動けていたように思います。
それは、普段の練習から各々の性格、プレースタイルを理解していたからだと思います。
口が悪いといわれ続けていた自分が言うのもおかしいかもしれませんが、
普段から「お前はいつも●●なんだよ」「なぜ●●できないかなぁ」等、かなり辛らつなことを、
スパイキーな言葉でぶつけ合っていました。
練習時だけでなく登下校時にも常に話していたように思います。
年頃の男子ですから、もちろん女子が話題の時も有りますが
今にして思うとラグビー漬けの日々だったように思います。
その結果、仲間を疑うことも無かったですし、常に信頼してプレーできていたように思います。
各々の持っているものを出し切り、はまった時には我らのチームは強かったですよ。
負ける気がしなかった。でもベスト3のチームはそれ以上だったのでしょう。上には上がいるものです。
でも自分にとって、我らのチームワークは最高でした。
55年の人生でこれだけのチームは他に経験できませんでした。
すごい仲間です。
「こいつらと組んでチームで何か仕事をしたら、でっかいことが出来たかもなあ」なんて最近考えたりもします。
会社で仕事上のチームは数多く組みましたが、なかなか強いチームはできませんね。
10期の自慢話のようになって申し訳ございませんでした。
でも皆さんのチームでも同じようなチームワーク、我ら以上のチームワークもあったと思います。
きっとあったでしょう。大切にしないといけませんね。
掛け替えの無いチームを与えてくれた松高ラグビー部に感謝です。
また現在チームを強くすることに取組んでいる現役諸君にも是非体感してもらいたいと願ってやみません。
微力ながらそのお手伝いが出来ればうれしいことだと思います。
これからも寒い日が続きます。
OB会会員の皆様、お体ご自愛下さい。